野球場コンサート!一番の元祖は秀樹さんなのだ!

西城秀樹さんの若き頃は、野球場コンサートが印象的ではないでしょうか。秀樹さんは、1974年、19歳の夏に初めての「ヒデキ・イン・スタジアム」を大阪球場で開催しました。

コンサートは本来、市民会館や色んなホールのある建物の中で開催するパターンが多かったです。それが歌手にとっては常識でもあったのです。

ですが秀樹さんは、1人の歌手として外で何かやれるコンサートをしたいと企画を練っていました。その計画というのが、野球場コンサートなのです。普段はプロ野球で使われる大阪球場。その場所を単独の歌手が名一杯場所を使ってコンサートを開催するのは、大胆だったですね。

その大胆な行動を秀樹さんは見事に実行したのです。野球場コンサートとなると、セットに莫大な費用がかかります。セットが完成するまでには2~3日かかり、観客席も約3万人確保する必要があるのです。

秀樹さんは歌うだけのコンサートとしてでなく、ファンの人達と一緒になって楽しめるコンサートにしたいと色々アイディアを考案していました。

やはりスポーツ万能の秀樹さん、演出は彼らしくど派手な演出で、クレーンやゴンドラを使ったり、自ら危険な行為をおかしてまで上から下へと降りる演出。それはまるでサーカスのようでした。

そのど派手な演出の野球場コンサートは大阪だけでなく、1978年からは後楽園球場にまで行われるようになり、コンサート名も「Big Game Hideki」になりました。

秀樹さん、野球場コンサートを行う日は必ず雨が降り、一時は「雨男」と呼ばれるようになりました。その「雨男」の秀樹さん、雨が降っても野球場コンサートを延期することなく、予定通り行っていました。

ファンと一体となって、雨が降ってびしょぬれになってもなんのその、力強く熱唱していました。

1974年の初コンサートで、秀樹さんは観客席のファンの人達にある提案を呼び掛けます。やはりコンサートは夜行うことが当たり前なので、「何か光るものを持ってきてほしい!懐中電灯がいい!」この秀樹さんがファンに懐中電灯を持ってきてほしいと呼び掛けたのがきっかけでペンライトが誕生しました。

ペンライトは3色が出る綺麗な光で、コンサートでファンはそれを使うようになりました。

大阪球場は1974年~1983年までの10年間、後楽園球場では1978年~1981年までの4年間、秀樹さんはコンサートを行いました。

見た目はコンサートは大反響で、大成功であっても、収入は赤字でした。というのも、秀樹さんのど派手な演出に随分費用がかかってしまい、それほど儲けにはなりませんでした。結構収入面で苦労するのが歌手の試練といいますか、苦悩とも言うのでしょう。

でも球場コンサートを行った時の秀樹さんは、まさしく若くて人気絶好調でもあり、70年代男性アイドルの中でもトップを走っていたとも言われています。ですからコンサートの費用が赤字だろうと何だろうとファンを喜ばせるために、秀樹さん自身頑張ってきた証でもあります。

その後秀樹さんの様に、野球場でコンサートをする芸能人が次々と出てきました。1978年後楽園球場で、キャンディーズが解散コンサートを、そして同じ球場で1981年ピンクレディーも解散コンサートを行いました。

男性アーチストで代表的なのがサザンオールスターズです。サザンの桑田圭介さんは、友情出演として秀樹さんにヤングマンを歌ってもらうよう、依頼をしました。

その他矢沢永吉さん、尾崎豊さん、外国のアーチストたちも続々と野球場コンサートを開催しました。やはり球場コンサートのきっかけを作ったのは秀樹さんなのです!