昭和時代は歌番組が盛り沢山!殆ど秀樹さんをテレビで見ていた!

私が小学校高学年~中学生~高校生~専門学校までと、とかく70年代、80年代は歌番組が沢山ありました。

特に私が10代だった頃の超人気歌番組は、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」、TBS「ザ・ベストテン」でした。この2つの番組は毎週月曜日と木曜日に放送されてたわけですが、「夜のヒットスタジオ」に関しては、当時夜10時からの放送で、まだ子供だった私に取ってはとても起きていられない時間帯でした。

「ザ・ベストテン」はまあまあの夜9時からの放送でしたね。司会の久米宏さん、黒柳徹子さんコンビによる愉快なおしゃべりぶりが何とも視聴者を釘付けにしてくれたものでした。

秀樹さんはこの2つの番組に関しては、常連出演者でもありました。特に「夜のヒットスタジオ」は出演回数歴代3位なのです。ちなみに1位は五木ひろしさん、2位は森進一さんです。

ですから秀樹さん、夜ヒットは1か月に殆ど毎週出ていたケースとなります。秀樹さんの夜ヒットの初登場は、1972年12月4日、曲名は、チャンスは一度でした。

ザ・ベストテンでは第1回から「ブーツをぬいで朝食を」でいきなり1位にランクインで初出場をしました。ところで、あのベストテンのミラーゲート、一番最初にくぐってきたのは誰かお分かりですか?

それは新御三家の1人、野口五郎さんだったのです。新御三家も度々ベストテンで、顔合わせすることは多々ありました。

1978年の放送開始後、秀樹さんはベストテンの方でも常連となり、出演回数も上位になっています。それだけ秀樹さん、ヒット曲に恵まれて、いつもベストテン入り出来てたんです。

新聞のテレビ欄を見ては、歌番組の名前に秀樹さんがあるのを知ると、必ず見るようにしていました。夜ヒット、ベストテン共にです。

歌番組だけでなく、バラエティ、ドラマなどでも秀樹さんが出演すると分かれば、すぐにテレビの前に座り込んで見ていたものです。

特に1981年から毎週土曜日秀樹さん司会の「モーニングサラダ」を私は毎週楽しみに見ていました。この番組であのとんねるずも出ていたことを皆さんはご存知でしょうか?

今のとんねるずがあるのは、秀樹さんのお蔭でもあると私個人はそう思うのです。

1985年には、つくば万博の開催テーマソング「一万光年の愛」を発表した秀樹さん。開会式は現在の天皇陛下がまだ皇太子時代にご出席され、秀樹さんは皇族方がご覧になっている前で「一万光年の愛」を披露しました。秀樹さん、当時とても緊張していたそうです。

その後の秀樹さんはアジア進出をして、日本の歌手として成功をおさめました。平成に入った1990年代には親友の野口五郎さんが秀樹さんのために、自ら作曲してプレゼントしたエピソードがあります。

その曲名が「LOVE SONGを永遠に」です。

NHKの2人のビックショーで秀樹さん、五郎さんは1993年出演し、「LOVE SONGを永遠に」を一緒に歌いました。本当に2人の友情は固く結ばれていたのです。

その後彼らは同じ2001年に結婚しました。しかもこれは偶然なんです。その上長女も翌年2002年に誕生、しかも2日違いでの誕生でした。秀樹さんの長女は6月3日、五郎さんの長女は6月5日に生まれました。

しかし、秀樹さんは脳梗塞になってしまい、病と闘いながら芸能活動を続けてきました。誰もが秀樹さんの復活を願ってきましたが…!!

残念ながら秀樹さんは、平成30年5月亡くなりました。あともう少しで芸能生活50周年を迎えることが出来たのに、本当に残念でなりません。

改めて秀樹さんのご冥福を心からお祈りいたします。

秀樹さんを尊敬する芸能人!特にマッチは彼を意識していた?

70年代、ヤングマンを大ヒットに結び付けた秀樹さん!その秀樹さんを尊敬するタレントや歌手が大勢います。河村隆一さん、西川貴教さん、つんくさん、TAIJIさん(X JAPAN)、それから秀樹さんのモノマネをすることで有名な山口智充さん(通称:ぐっさん)、近藤真彦さん(通称:マッチ)その他にも秀樹さんを尊敬している人達は大勢います。

特に近藤真彦さんは、デビュー当初からレコード会社も秀樹さんと同じだったことで親交が深かったようです。

たのきんの1人、真彦さん、ここからは通称のマッチと呼びます。特に秀樹さんに憧れを抱いていました。マッチの秀樹さんに対する印象は「かっこいい!」です。

マッチは新御三家バージョンでは、西城秀樹さんだったのです。ちなみに田原俊彦さんは、郷ひろみさん、野村義男さんは、野口五郎さんでした。

ですからマッチは常に秀樹さんを意識して、偉大な先輩として、そして兄として結構彼に色々相談を持ち掛けていました。その相談内容とは何でしょうか?詳しくは分かりませんが、きっとマッチのことですから、「長期に渡ってアイドルとして生きる秘訣」などを聞いてたかもしれません。これはあくまで推測です。

何故マッチが秀樹さんを意識していたのか?その理由は2つあります。1つ目は、まず秀樹さんは1975年「白い教会」をリリースし、その間奏の中で「涙なんかいるもんか!バカヤロー!」と叫ぶシーンがありました。

この「白い教会」のセリフを聞いたマッチは、自分のヒット曲「ブルージーンズメモリー」で秀樹さんの様に間奏中に「バカヤロー!」と叫んでいるのです。これは秀樹さんをかなり意識して取り入れたのではないでしょうか?

2度目は秀樹さんは、1981年ガールシリーズを歌ってる最中に髪をバンダナで止めるファッションを取り入れていました。丁度同じ頃マッチもデビュー2年目でバンバンヒット曲を出し、やはりマッチも髪にバンダナで止めてたのをテレビで何度も見かけたことがありました。

やはり偉大な先輩に少しでも近づこうと、マッチは秀樹さんのファッションにもかなり興味を示して、真似てた所があったと言えます。

歌番組でもよく秀樹さんと一緒になることが多かったマッチは、徐々に秀樹さんを尊敬するようになり、プライベートでもよく付き合うことが多くなりました。

外食を共にしたり、NHKの「2人のビックショー」でマッチは秀樹さんと共演することが出来ました。

秀樹さんは後輩のマッチには何かと気を配り、色々アドバイスもしていました。

その後マッチは歌手からレースに道を変えますが、それでも秀樹さんを尊敬する気持ちは変わらず、いつも「秀樹さん、お世話になってます。」と挨拶を交わしていました。

こうして見ますと秀樹さんって、本当に男性同士でも好かれていたことがよく分かりました。マッチだけでなく、秀樹さんを尊敬する歌手は彼のヒット曲を歌うことがあります。

やはり一番多いのが「ヤングマン」、そして次に多いのが「ブルースカイブルー」です。本当に先輩としての秀樹さんの偉大さが改めて理解出来ます。

1980年たのきんトリオ誕生!秀樹さんは追われる先輩アイドル!

1980年をさかえに、男女ともにアイドル路線が変わりつつありました。やはり山口百恵さんの結婚・引退が大きな栄目を作ったとも言えるのではないでしょうか?

1980年、女性新人歌手がいきなり人気度を上げてデビューしたかと思えば、男性新人もどんどん出てきました。それが「たのきんトリオ」です。「たのきんトリオ」は田原俊彦さん、近藤真彦さん、野村義男さんの3人で、TBSドラマ「3年B組金八先生」からデビューしました。

彼らは郷ひろみさんの出身でもあるジャニーズ事務所のメンバーで、デビュー当初から人気がありました。これはもう1970年代の新御三家の後継者として、かなり期待感が大きかったですね。

この「たのきんトリオ」の誕生で、秀樹さんは先輩アイドルとして追われる立場になってきました。たのきんメンバーは当時全員15~16歳。一方の秀樹さんは25歳でした。

年齢から比較しても、やはり10代の若者に注目がいきがちになり、20代半ばの秀樹さんからしてみると、70年代のアイドルだってまだまだ負けてはいられない!って思いがありました。

70年代のアイドルは容姿と歌唱力が勝負の世界でしたが、80年代のアイドル達にはもうそれは通用しない世界になっていました。

歌は下手でもルックスがよければいいとか、多少やんちゃな面があっても80年代ではそれが当たり前みたいなものを感じていました。

ですが秀樹さん、ひろみさん、五郎さんのように70年代のアイドル、新御三家は出す曲をとても大事に歌い、過去の作品などもコンサートで歌うなどしていました。

でもたのきんトリオの誕生で、アイドルの形もガラリと変わり、そこから一気にアイドル系の番組も増えてきたような気がします。例えばテレビ東京の「レッツゴーアイドル!」「ヤンヤン歌うスタジオ」など、とにかくジャニーズ事務所のタレントたちが大幅に活躍するようになりました。

確かに常に後輩アイドルに追われるようになった秀樹さん。でもたのきんが出てきても、ひるんではいませんでした。

ザ・ベストテンで80年代のアイドルと共にテレビに出ても、秀樹さんはやっぱり秀樹さん。彼自身の持ち味でその後もヒットを飛ばしています。

歌唱力だって、後輩アイドル達と比べたらとても素晴らしいです。さすがにベテランアイドルは負けません。

1980年代以降の秀樹さんは、完全にアイドルから大人路線の歌手になっていきました。オリジナルアルバムにしても、結構バラード系が多くなり、昔の「愛の十字架」「傷だらけのローラ」のような激しいアクション系から、落ち着いたムード雰囲気の曲をリリースする傾向にありました。

1981年では「リトルガール」「セクシーガール」「センチメンタルガール」など、ポップンロールの楽曲を取り入れ、彼はそれを「ガールシリーズ」と呼んでいました。

そしてデビュー10周年ということで、「ヒデキ元年」と名付けるなど、秀樹さんらしい活動をしていました。

この頃の秀樹さんは、文化放送で、毎週日曜日にラジオ出演するなど結構レギュラーとして多忙な日々を送っていました。

特に印象的だった「サンデーわいわい広場」。この番組は秀樹さんが太田裕美さんと共に司会をして、スタジオにファンを呼んで番組を構成するものでした。スポンサーが「ハウス食品」でしたので、勿論まだ秀樹さんは「バーモンドカレー」のCMに出演中で、あの有名なセリフ「ヒデキ、感激!」が続いていましたからね。

10年以上アイドルを保っていた秀樹さん!まだまだ80年代のアイドルには負けてませんでしたよ!

「たのきんトリオ」どんとこい!だったんではないでしょうか?(笑)

秀樹の弟・妹オーディション!秀樹さんも審査員の1人だったの?

西城秀樹さんは、デビューから「芸映プロダクション」の一員として歌手を続けてきました。どんどんヒットを飛ばして順調で、人気も絶頂期な時に、1980年~1981年に「秀樹の弟・妹募集・新人歌手オーディション」が開催されることになりました。

この企画は秀樹さん自身が提案したわけではなく、「芸映プロダクション」が自社募集として出したものでした。

1979年秀樹さんが「ヤングマン」を大ヒットさせた翌年の1980年は、アイドルに変化が訪れるいわゆる変換期でもありました。

やはり何といっても1980年の大きな報道と言えば、山口百恵さんの電撃引退・結婚でした。百恵さんの引退で、1980年の新人歌手は1970年代のアイドルとはまた違った形で結構期待される歌手がどんどんデビューしてくる気配がありました。

そんな状況の中、秀樹さんの所属する「芸映プロダクション」でも1人でも多くの新人歌手を出そうと狙って、「秀樹の弟・妹オーディション」を企画したのです。

第1回目は1980年3月、決戦大会が行われ、秀樹さんも最終審査のメンバーの1人として加わりました。やはり秀樹さん、審査員の1人だったんですね。

そして決戦大会で石野真子さんのヒット曲「春ラララ!」を歌った河合奈保子さんが優勝し、同年6月「大きな森の小さなおうち」で歌手デビューを果たしました。

河合奈保子さんはその後、松田聖子さん、岩崎良美さん、田原俊彦さんなど、同期生となり、共に1980年代の新しいアイドル歌手として活躍するようになりました。

奈保子さんは先輩であり、兄でもある秀樹さんと暫くハウスバーモンドカレーのCMで兄妹として共演するなど色々活躍しました。彼女は「けんかをやめて」「唇のプライバシー」など、ヒットを飛ばし続けました。

2回目は1981年12月に決戦大会行われました。2回目の優勝は石川秀美さん。他に優勝者がいたのですが、秀樹さんが石川秀美さんを強く推薦し、結局秀美さんが選ばれ、1982年「妖精時代」で彼女はデビューしました。秀美さんの同期には、堀ちえみさん、早見優さん、松本伊代さん、シブガキ隊、中森明菜さん、小泉今日子さんなど「花の82年組」と呼ばれる中の新人の1人として仲間入りをしたのです。

河合奈保子さん、石川秀美さんの2人が秀樹さんの妹として、歌手デビューをし、まさしく1980年代の女性アイドルとして活躍しました。

秀樹さん、歌手をする傍ら当時新人歌手のオーディションの審査もするとはなかなかやりますね!奈保子さんも秀美さんも、秀樹さんを時には偉大な先輩として、時には本当の兄の様に慕っていました。

秀樹さん自身には本当の妹はいません。ですが芸能界に2人の妹を迎え入れることって出来るようで出来ません。

やはり秀樹さん、新人歌手の選出が優れてた事が分かります。奈保子さんは歌唱力がありましたし、秀美さんはスタイルがよくて、特に足が綺麗な女性でした。

それに奈保子さん、秀美さん共にヒット曲を出し、ベストテン入りもしています。さすが秀樹さん、2人の妹たちを人気アイドル、そしてヒットを出すことにも成功させています。

「芸映プロダクション」で秀樹さんは、重要な存在であることがよく分かりました。

現在の奈保子さん、秀美さんは共に結婚、出産を経て芸能界を引退しました。ですが彼女たちの子供達が今度は芸能界で活躍しています。

まさしく昭和アイドル・ジュニアと言えますね。

野球場コンサート!一番の元祖は秀樹さんなのだ!

西城秀樹さんの若き頃は、野球場コンサートが印象的ではないでしょうか。秀樹さんは、1974年、19歳の夏に初めての「ヒデキ・イン・スタジアム」を大阪球場で開催しました。

コンサートは本来、市民会館や色んなホールのある建物の中で開催するパターンが多かったです。それが歌手にとっては常識でもあったのです。

ですが秀樹さんは、1人の歌手として外で何かやれるコンサートをしたいと企画を練っていました。その計画というのが、野球場コンサートなのです。普段はプロ野球で使われる大阪球場。その場所を単独の歌手が名一杯場所を使ってコンサートを開催するのは、大胆だったですね。

その大胆な行動を秀樹さんは見事に実行したのです。野球場コンサートとなると、セットに莫大な費用がかかります。セットが完成するまでには2~3日かかり、観客席も約3万人確保する必要があるのです。

秀樹さんは歌うだけのコンサートとしてでなく、ファンの人達と一緒になって楽しめるコンサートにしたいと色々アイディアを考案していました。

やはりスポーツ万能の秀樹さん、演出は彼らしくど派手な演出で、クレーンやゴンドラを使ったり、自ら危険な行為をおかしてまで上から下へと降りる演出。それはまるでサーカスのようでした。

そのど派手な演出の野球場コンサートは大阪だけでなく、1978年からは後楽園球場にまで行われるようになり、コンサート名も「Big Game Hideki」になりました。

秀樹さん、野球場コンサートを行う日は必ず雨が降り、一時は「雨男」と呼ばれるようになりました。その「雨男」の秀樹さん、雨が降っても野球場コンサートを延期することなく、予定通り行っていました。

ファンと一体となって、雨が降ってびしょぬれになってもなんのその、力強く熱唱していました。

1974年の初コンサートで、秀樹さんは観客席のファンの人達にある提案を呼び掛けます。やはりコンサートは夜行うことが当たり前なので、「何か光るものを持ってきてほしい!懐中電灯がいい!」この秀樹さんがファンに懐中電灯を持ってきてほしいと呼び掛けたのがきっかけでペンライトが誕生しました。

ペンライトは3色が出る綺麗な光で、コンサートでファンはそれを使うようになりました。

大阪球場は1974年~1983年までの10年間、後楽園球場では1978年~1981年までの4年間、秀樹さんはコンサートを行いました。

見た目はコンサートは大反響で、大成功であっても、収入は赤字でした。というのも、秀樹さんのど派手な演出に随分費用がかかってしまい、それほど儲けにはなりませんでした。結構収入面で苦労するのが歌手の試練といいますか、苦悩とも言うのでしょう。

でも球場コンサートを行った時の秀樹さんは、まさしく若くて人気絶好調でもあり、70年代男性アイドルの中でもトップを走っていたとも言われています。ですからコンサートの費用が赤字だろうと何だろうとファンを喜ばせるために、秀樹さん自身頑張ってきた証でもあります。

その後秀樹さんの様に、野球場でコンサートをする芸能人が次々と出てきました。1978年後楽園球場で、キャンディーズが解散コンサートを、そして同じ球場で1981年ピンクレディーも解散コンサートを行いました。

男性アーチストで代表的なのがサザンオールスターズです。サザンの桑田圭介さんは、友情出演として秀樹さんにヤングマンを歌ってもらうよう、依頼をしました。

その他矢沢永吉さん、尾崎豊さん、外国のアーチストたちも続々と野球場コンサートを開催しました。やはり球場コンサートのきっかけを作ったのは秀樹さんなのです!

勇気があればのカップリング曲!IFは私の癒し系の曲です!

「勇気があれば」は「ヤングマン」と同じ1979年にリリースされた曲です。前年の「ブルースカイブルー」と同様のバラードですが、秋に出された曲でもあり、年末に向かってしっとりと歌われたことで有名です。

オリコンでは3位にランクインされ、鐘の音を取り入れたこの曲は本当に素晴らしい作品です。レコード大賞ではこの「勇気があれば」で金賞に入賞しました。「ヤングマン」は元々は日本の曲ではないので、レコード大賞の審査からは外されましたが、それでも秀樹さんには1979年のレコード大賞の最優秀候補と噂がありました。

ですがジュディ・オングさんの「魅せられて」と秀樹さんの「勇気があれば」の売上を比較すると、「魅せられて」の方が上だったので、彼はレコード大賞を取れなかったんですね。本当に残念でした。

さて、カップリング曲・昔はB面とよく呼ばれていましたが、カップリングがベストテン入りすることは当時としてはありませんでした。

ですが秀樹さんの場合、カップリングをA面として出してもいいのではないか?と個人的に思う作品がいくつかあったのですが、中でも「勇気があれば」のカップリング曲「IF」は私にとって癒し系になっています。

「勇気があれば」は素晴らしい曲です。でも「IF」も結構心にじ~んと来るような秋らしいバラードで、昔から私の大好きな、しかもず~っと癒しになっています。

当時は中学生で、なかなかおこずかいでレコードを買うことが出来なかったんです。それがたまたま某FMラジオ局で、「B面コーナー」と言った番組があり、秀樹さんの「勇気があれば」のカップリング曲「IF」を運よく聞くことが出来たのです。

早速カセットテープに録音し、何度も聞いてるうちに、「ああ、これって何ていい歌なんだろう。」と私は思うようになりました。

晩秋から初冬にかけて「IF」を聞くと、何だか私の心は季節の変わり目のせいもあるのか、段々その曲の世界に浸っていったのです。

「今年も終わりなんだ、あと少しで新年が来るけど、何だかせつないなぁ。」なんてIFを聞きながらそんなことを考えていました。

もうヤングマンのヒット以来、私は秀樹さんがどんどん好きになり、IFもテレビで歌えばいいのにとさえ思っていました。ですが歌手がカップリングを歌うことを見ることは当時はなかったですね。

やはり秀樹さんのバラード系は男女恋愛が終わっていく、別れるイメージが多いので、IFもそんな切なさを伝える歌でしたね。でもブルースカイブルーとは違って、何だか大人しめの秋から冬へ向かっていくそんな寂しさを感じるような印象を私に与えました。

それから春の卒業時期に聞いても、IFは癒しになってました。もうすぐ仲良しの友達と別れてしまう…そんな時に秀樹さんのこのIfは寂しい感じはしたんだけれども、元気をくれた曲でもあるのです。

あれから何十年かが過ぎて、CD-BOXとして秀樹さんのシングルがコレクションとして販売されました。その中にIFが入っていて、私は本当に嬉しかったのです。

今は仕事で疲れた時や頭をぼ~っとさせたい時にIFを聞くと、1970年代にタイムスリップ出来て、とても癒された気分になれるのです。

秀樹さん、素敵なカップリング曲、IFをありがとうござました。これからもずっと聞き続けます。

1979年最大のヒット曲ヤングマン!振り付けがとっても簡単!

西城秀樹さんの最大のヒット曲と言えば、誰もがご存知の「ヤングマン」ですね!「ヤングマン」は1979年2月21日にリリース、たちまちヒットに火がつきました。

当時人気歌番組の1つである「ザ・ベストテン」では9週連続第1位を獲得、そのうちの2回は何と番組始まって以来の9,999点の満点を出しました。この記録は他の歌手で出した人は1人もいなく、秀樹さんだけの記録となっています。

それに1979年の音楽の賞レースでは、秀樹さん立て続けにグランプリを受賞しました。但し、レコード大賞だけは、外国の曲ということで審査からはずされてしまい、ジュディオングさんの「魅せられて」に決まり、残念ながらグランプリには敗れてしまいました。

元々「ヤングマン」はアメリカのグループ・ヴィレッジピープルの曲であり、「YMCA」をカバー曲として秀樹さんは出したのです。ですから歌の題名は「Young Man(Y.M.C.A)」ですね。

ですが皆さんの中に、YMCAって一体何のこと?って疑問を抱きますよね。このYMCAの詳細についてご説明します。

Y(Young)M(Man)C(Can Do)A(Anything) つまりYMCAの頭文字の詳細はこうで、日本語に訳せば、「若いうちは何でも出来る」です。ですからヤングマンを歌う歌詞の中に「若いうちはやりたいことなんでも出来るのさ~♪」がYMCAの正式な意味なのです。

ヤングマンの訳詞は、当時のマネージャーのあまがいりゅうじさんが担当しています。

それにYMCAの振りつけがとても簡単で、子供からお年寄りまで大変うけました。Yは両腕を斜めにあげます。Mは両手を頭に乗せます。Cは左側にまるく斜めにします。Aは両手を山のようにするポーズを取ります。これで十分秀樹さんと同じようにYMCAのポーズの振りつけが出来るのです。

秀樹さん、ヤングマンのレコーディングの際も、スクールメイツを呼んで参加させていました。ちなみにスクールメイツとは、「東京音楽学院」の芸能界の学校です。

とにかく秀樹さんのヤングマンを歌う時のバックダンサーは凄かったですね。同じスタジオにいた女性歌手だったり、時には秀樹さんのファンだったり、後はラグビーの格好をした男性たちが参加したりと実に様々でした。

秀樹さんは1979年以後もヤングマンを歌い続けます。コンサートや歌番組は勿論のこと、1995年のサザンオールスターズのコンサートでも、招待歌手としてヤングマンを披露、客席の人達と大いに盛り上がりを見せてくれました。

秀樹さんにとって、ヤングマンは彼自身の最大のヒット曲になりました。誰でも簡単に踊れるYMCAを取り入れたことで、後世に残す楽曲となりました。

1979年、ヤングマンを出したことで、レコード売り上げもミリオンセラーに輝きました。誰もが秀樹さんのヤングマンを歌って、YMCAの振り付けまで真似していたのです。

それは「激しい恋」「傷だらけのローラ」とは違って、年代問わず流行しました。そして翌年1980年の春の選抜高校野球大会では、ヤングマンが入場行進曲に選ばれるなどの素晴らしい記録も残しました。

秀樹さん、1972年にデビューして、7年目で凄い頂点に立つことが出来ました。ヤングマンの大ヒットがきっかけで、私は秀樹ファンになりました。

秀樹さんって素晴らしい歌手だ、何を歌ってもカッコいい!!まさしく理想の男性、そしていつしか私も「ヒデキ~!!」コールになってしまいました。(笑)

秀樹さん、まさしく永遠のヤングマンです。

1978年発表ブルースカイブルー!秀樹さん自身も好きな曲です

秀樹さんの今でも尚歌い継がれている曲と言えば、1978年8月25日にリリースした「ブルースカイブルー」ですね!

この作品は作詞阿久悠さん、作曲馬飼野康二さんです。作詞家の阿久悠さんは、すでに他界されてらっしゃいますが、これまでアイドルや演歌など多くの歌手に素晴らしい作品の数々の作詞をされてきました。

1978年と言えば、同時期にピンクレディーや石野真子さん、岩崎宏美さんなどにも曲の作詞を引き受け、大ヒットに結び付けています。それだけ偉大な作詞家だったことが伺えます。

さて、秀樹さんのバラードの最大のヒット曲「ブルースカイブルー」ですが、オリコンでは6位にランクインし、1978年のレコード大賞の金賞を受賞、そしてレコード大賞のグランプリの候補とまで噂されていました。

ですが1978年はピンクレディーがシングルを出すたびに大ヒットを飛ばし、山口百恵さんも「横須賀ストーリー」のヒットで、グランプリ候補に挙がっていました。

レコード大賞は結局ピンクレディーが受賞しましたが、秀樹さんの「ブルースカイブルー」は惜しくもグランプリは逃したものの、インパクトのある作品としてヒットしました。

青空をテーマにした曲ではありますが、ここでも男女の恋愛感情が込められており、結局は別れてしまう…でもその割には明るい曲で、秀樹さんのファンでなくても、この「ブルースカイブルー」は好きだと評価してくれる人は沢山いました。

曲の長さは5分13秒。テレビの歌番組でフルコーラスを歌うことは、なかなか難しいと秀樹さんは言ってました。でもフルコーラスで聞けなくても、十分秀樹さんの最大のバラードのヒット曲となり、何年たっても秀樹さんはこの歌をテレビで歌いづつけることになります。

テレビでは女性のバックコーラスと共に、「青空よ心を伝えてよ~♪」と見事に歌いこなしています。

真っ青な空に向かって、秀樹さんが思い切り手を伸ばして歌唱する姿は、本当に私達ファンを引き付けてくれました。しかし、カラオケで歌うとなると、この曲は難しいです。

何せ5分13秒の長さですから、素人が歌うと、喉がどんどん疲れてくるのです。ですが秀樹さんはさすがにプロですね、レコーディングも見事にこの5分13秒を最後まで歌いこなしているのです。

平成になっても、秀樹さんはNHK歌謡コンサートなどで、「ブルースカイブルー」を歌唱していました。秀樹さんにとって、この曲は名作中の1つなのです。

1978年にリリースした時は23歳だった秀樹さん。ですが何歳になっても秀樹さんが歌うと全然古さを感じません。

そして平成生まれの若者たちも、秀樹さんの「ブルースカイブルー」を聞くようになりました。

今思えば、「ブルースカイブルー」を出した時から秀樹さんのアイドルから大人の歌手への変化する時期だったのかもしれません。レコードジャケットを見ても、何だか大人の雰囲気になりつつあるような顔の表現に見えました。

ちなみに私は秀樹さんの「ブルースカイブルー」のジャケット写真が一番好きなのです。勿論他にも好きなのはありますが。

そして秀樹さん本人も、全シングルの中で自分の出した曲では「ブルースカイブルー」がお気に入りになっています。理由としては、男女の恋愛感情、いわゆるラブソング系が秀樹さん自身好きだったからです。

アイドルとしてでなく、大人としての歌手を目指したきっかけを作った曲でもあるのです。

秀樹さんの魅力光るバラード!アナタはどんな曲が好きですか?

秀樹さんはアクション型ではなく、バラード作品なども結構人気があります。特に1976年に発表した「若き獅子たち」と「ラストシーン」は作詞阿久悠さん、作曲三木たかしさんのコンビによって素晴らしい仕上がりになっています。

「若き獅子たち」のサビの部分、「風よ~なぶるな~獅子のたてがみを~♪」が私は特に好きで、あの百獣の王・ライオンの姿がすぐに想像でき、秀樹さんの男らしさと重ね合わせてしまいます。

「若さを誇らしく思うときに~♪」この1番の最後の歌詞も私は大好きで、その時代の若者に対する応援歌にも聞こえてきます。本当、若さは今しかないのだ、前向きに行こう!って励ましてくれるような、そんな印象があります。

「ラストシーン」は秀樹さん、コンサートでよく歌っていますが、これは年上の女性に憧れる男性がテーマで、結局は別れる羽目になる悲しい結末なのですが、でも秀樹さんにはピッタリの曲でもありました。

歌詞のサビの部分「ありがとう~幸せだったわ~一緒に歩けなくてごめんなさい~暖かい春の日差しの中で熱があるように僕は震えてた~♪」これは聞いてると何ともせつなさを感じます。

年上の女性を好きになったのに、男性の方が年下だったため、付き合えなくなってしまい、失恋してしまった…その感情がよく出ています。

結局は失恋をテーマにした曲なのですが、「ラストシーン」も秀樹さんにしか歌えない曲です。

秀樹さん、シングルで出したバラード曲はその後も素晴らしい作品が続々ありました。1978年「遥かなる恋人へ」、1979年「勇気があれば」、1980年「サンタマリアの祈り」、1982年「南十字星」、1984年「抱きしめてジルバ」などなどどれも秀樹さん、素晴らしく歌いこなしていることが分かります。

「遥かなる恋人へ」は、故郷に残した恋人を思って、すぐにでも会いに行きたい気持ちがよく出ていますし、「勇気があれば」は勇気を持って好きだと打ち明けたい気持ちが込められています。

「サンタマリアの祈り」では、バラードにしては5分26秒と意外にも長く、秀樹さんも歌いこなすのは大変だったのではないかと思います。

でもこの「サンタマリアの祈り」は山口百恵さんも好きだと秀樹さんが話していました。何ともせつない男性の気持ちを表したこの曲は、聞けば聞くほど私の心を引き付けて行きました。

「南十字星」のリリースで、秀樹さんはデビュー10周年を迎えました。この曲は映画「南十字星」の主題歌でもあるのですが、これもまた男女の恋愛感情を表現した曲です。

オリコンでは最高6位にラインインして、ヒットしました。私自身シングルの「南十字星」も好きなんですが、個人的にはアルバムバージョンで収録した「南十字星」が大好きなのです。

アルバムではこの「南十字星」の男女の恋愛感情が凄く濃く描かれているように聞こえるからです。勿論歌番組では、十字架をバックに白いタキシード姿で「南十字星」を歌う秀樹さんを一生懸命見ていました。

テレビカメラで秀樹さんの視線が自分の目の所にいくと、まるで秀樹さんが自分の為に歌ってくれてるんだと思って、胸がドキドキしたものでした。「あ~ん、ヒデキィ!」と私もいつしか秀樹さんの虜になっていました。

「抱きしめてジルバ」はワム!の「ケアレス・ウイスパー」のカバー曲であり、同時期に郷ひろみさんも「ケアレス・ウイスパー」の題名として発表し、秀樹さんと競争になりました。

結果的に売り上げではひろみさんより秀樹さんの方が勝ちました。同じカバー曲でシングルを出すとは、秀樹さんとひろみさんのライバルとしての戦いが今ここでハッキリと分かりました。

アナタは知っていますか?傷だらけのローラフランス語バージョン

1974年デビュー3年目にして、大ヒットになった秀樹さんの代表曲の1つ「傷だらけのローラ」。激しいアクションと彼独特の歌唱力が評価され、2年連続「レコード大賞」の歌唱賞を受賞しました。

1973年では「ちぎれた愛」、そして1974年「傷だらけのローラ」で歌手にとって名誉である賞を秀樹さんは2年連続獲得することが出来ました。これこそ彼自身の天性の才能と言えるのではないでしょうか?

そして1974年のNHK紅白歌合戦に初出場して、ライバルでもある五郎さん、ひろみさんと共に新御三家が全員そろいました。秀樹さん、当時19歳。10代にしては本当に歌唱力がありました。70年代のアイドルは本当に容姿だけでなく、歌唱力が優れた歌手が多かったとも思えます。

ところで秀樹さんのこの「傷だらけのローラ」のフランス語バージョンがあることをアナタはご存知でしょうか?私は昔から秀樹さんのこのフランス語バージョンがあることは知っていました。

では秀樹さんが何故「傷だらけのローラ」のフランス語バージョンを出したのでしょうか?これには理由がありました。秀樹さんがこの曲で最優秀歌唱賞を受賞したことにより、激しいアクションと彼独自の歌唱力を日本だけでなく、海外にも出した方がいいのではないか?とのスタッフの考えがありました。

秀樹さん、デビューして初めての海外進出を狙うことになりました。秀樹さん自身もこの計画にはノリノリでしたので、翌年1975年1月、フランス語で「傷だらけのローラ」をレコーディングしました。

「傷だらけのローラ」フランス語バージョンは、フランスだけでなく、ヨーロッパ各国で販売され、一方離れた地域ではカナダにもこのフランス語バージョンが販売されました。

特にカナダではこのフランス語バージョンが評判がよく、レコード売り上げを2位にラインクインするほどの大ヒットとなりました。

あれほどのインパクトを残した「傷だらけのローラ」ですが、若い秀樹さんにしてみれば、日本語、フランス語の両方で歌いこなすのは相当大変だったことでしょう。

フランス語は英語より難しいとされていますので、覚えるのも大変です。でも秀樹さんは歌手として、世界中の人達にこの「傷だらけのローラ」を知ってもらおうと必死に頑張って歌っていたんですね。

国内の歌番組でもフランス語で歌う姿を見た覚えがあります。コンサートでは日本語とフランス語を両方取り混ぜて歌うこともありました。

しかし多忙な秀樹さん。力一杯声を出して歌いすぎたのか、一時声帯を痛めてしまった時期がありました。あれだけ熱唱型・絶唱型を言われるようになった秀樹さん。歌手にとって声帯はとても大事です。痛めてしまうと大変なことになります。

大きな病院で検査を受けた秀樹さんは、手術するほどもう少し一歩手前まで声帯を痛めていたことが判明しました。それで大事をとり、入院をしました。

その時は海外でのレコーディングを予定していましたが、やはり治療優先ということで、全てのレコーディングの仕事はキャンセルしました。

日本では「傷だらけのローラ」のフランス語バージョンの販売はされることはありませんでしたが、1999年発売のシングルコレクションCD-BOXには何と!この「傷だらけのローラ」のフランス語バージョンが入っています。

勿論1975年当時の秀樹さんの歌唱のまま、フランス語で入っています。興味のある方、一度聞いてみては如何でしょうか?

日本語とは違った秀樹さんの魅力が満載ですよ。