TBSドラマ・寺内貫太郎一家!小林亜星さんと親子の役で出演!

皆さんはドラマの「寺内貫太郎一家」を覚えていますか?TBS系ドラマで、脚本家は向田邦子さんです。すでにご存知の方も多いかもしれませんが、秀樹さんが俳優として初めてレギュラー出演したホームドラマです。

小林亜星さんと父と息子の役で共演し、ドラマのメインは亜星さんと秀樹さんが親子げんかするシーンでした。ですがドラマの撮影の時に、亜星さんと秀樹さん、親子喧嘩の演技に熱が入りすぎたのか、亜星さんが秀樹さんを激しく突き飛ばしたことで、彼はひっくりかえってしまって、腕を骨折する大けがをしてしまいました。

その瞬間、亜星さんは顔が青ざめたそうですが、それでも秀樹さん、骨折してもギプスをはめて撮影に参加していました。演技とはいえ、何とも痛々しいです。

それからおばあちゃん役で出演していた樹木希林さん。当時は30代なのに、見事に老け役を演じていましたね。でもあのおばあちゃんは今思えば希林さんにはピッタリな役でした。

沢田研二さんのポスターを見ては、「ジュリー!」と声掛けして腰をふる姿が何とも笑えました。

食卓を囲むシーンで、おばあちゃん役の希林さんが、食事中に下品な行為をすると秀樹さんの「きったねえなぁ~!ばあちゃん!」のセリフも有名です。

当時の視聴率は30%代を超えて、人気のホームドラマの1つでした。秀樹さんが浅田美代子さんと屋根の上でギターを弾きながら歌う姿も何とも微笑ましく、暖かい印象を与えてくれました。

本放送は毎週水曜日の夜9時からの放送でしたが、確かなかなか再放送されない覚えがあり、見たくても見られませんでした。

高校生になった頃、やっと「寺内貫太郎一家」が再放送されたのですが、丁度学校に行ってる時間帯でまた見ることは出来ませんでした。

他に共演された加藤治子さん、伴淳三郎さん、左とん平さんはすでにお亡くなりになっています。

加藤治子さんは、お母さん役で和服のよく似合う女優さんでした。いつも夫を支え、息子や娘に対しては愛情を注ぎ、おばあちゃんとは嫁、姑の間であっても何とか上手くやっている家庭の切り盛りが上手なおかみさんと言えました。

小林亜星さんは、墓石職人として紺色のはっぴを着て、仕事に励む傍ら、本当に頑固で融通のきかない親父を演じていました。

いくらドラマ上の役とはいえ、お父さん役の亜星さんはどっしり方の体系、一方の息子役の秀樹さんはスマートでしたので、父息子の親子の役としてはつり合いが取れていませんでした。(笑)

このドラマが放送されていたのは、1974年ですから、秀樹さんは歌手と俳優と忙しい毎日を送っていたのですね。

でも小学生だった私もこのドラマを見ていたくらいですから、何か引き付けるものがあったんでしょうね。

やっぱり亜星さんと秀樹さんの親子喧嘩のシーンが忘れられません。秀樹さん、力一杯演技上であっても、亜星さんにぶつかっていたのでしょうか?でも骨折する大けがをしたくらいですから、やはり体全体でぶつかっていってたのでしょう。

でもその秀樹さんの怪我のお蔭で、亜星さんと実の親子の様に仲良くなったエピソードがあります。

寺内貫太郎一家はその後DVD化されました。懐かしいシーンがDVDで見られるので、あの頃にタイムスリップ出来ますよ。

激しいアクションで歌う秀樹さん!女性ファンを魅了した曲って?

1973年のレコード大賞で、最優秀歌唱賞を受賞した秀樹さん。翌年1974年に入ると、ますますアイドル路線への階段をどんどん登っていくことになりました。

秀樹さんは子供の頃から、アメリカのロック系が好きで父の影響もあってか、いつも憧れていました。マイクスタンドを持ちあげて歌うアメリカのロック歌手を見て、秀樹さんも自分でこの方法を取り入れた歌唱をしてみたい!と思うようになりました。

でもマイクスタンドを持って歌うことは、当時日本の歌謡界には全然ありませんでした。何でも新しいことにチャレンジ旺盛な秀樹さんは、体全体の動きを活かして何とかマイクスタンドで歌うことを希望していました。

その秀樹さんの希望を取り入れた曲が1974年2月25日リリースの「薔薇の鎖」です。この曲で秀樹さんは、大胆にもマイクスタンドを振り回して、激しいアクションで歌唱する姿をテレビの前で披露しました。

この曲で私が初めて「西城秀樹」の名前を知るようになったのです。出だしの歌詞の「愛する二人は離れていても~寂しくはないさ夜も朝も~薔薇の鎖が2人を結ぶ~♪」この部分を聞いた時、私は「あれ?薔薇の花に鎖なんかあったっけ?とげはあるけど。」って不思議な思いで秀樹さんの歌をテレビで見ていました。

小学生で、アイドル歌手という存在がまだ理解出来てなかった私は、この時から秀樹さんの歌う姿を真似するようになりました。マイクスタンドを持ちあげる姿は、大人だけでなく、子供にまでインパクトを残したのです。

ですから学校で秀樹さんの「薔薇の鎖」を真似て歌ってる男子たちが結構多かったのを覚えています。男子児童にとって秀樹さんの歌いぶりは「かっこいい!将来あんなふうになりたい!」と言いだす子がいましたね。

そして「激しい恋」「傷だらけのローラ」など、続々とヒット曲を出し、大人の女性ファンはますます「ヒデキ~!!」と彼の魅力に魅かれて行きました。

激しい恋の「やめろといわれても!(ヒデキ!)今では遅すぎた!(ヒデキ!)」左足をあげるポーズを真似て歌うことも当時流行りました。歌詞の間に入るカタカナのヒデキコールは、本当に女性ファンをどんどん魅了していきました。

魅了させたのは「薔薇の鎖」、「激しい恋」だけではありません。秀樹さんの代表曲の1つである「傷だらけのローラ」は、まさしく絶唱型に相応しい曲であり、体全体で激しいアクションを起こして歌唱するインパクトがあります。

ですから小学生の私からしてみると、当時の秀樹さんの歌い方を見て、「何故この歌手は苦しそうに、力入れて歌ってるの?」と思っていたのです。

大人になって分かったことは、「傷だらけのローラ」のあの秀樹さんの歌い方は彼独自の表現の仕方、特徴であったことが分かったのです。

曲の間奏中に秀樹さんが「ローラ!お~ローラ!」って叫ぶシーンがありますよね。あれを聞いてると何だか自分に呼びかけてるみたいで、大人の女性からしてみると、秀樹さんはやっぱり魅了させてくれたんですね。

「傷だらけのローラ」のヒットで、彼は1974年NHK紅白歌合戦の初出場を果たしました。衣装は黒く、「カイケツゾロリ」と呼ばれていました。ちなみにカイケツゾロリとは、原ゆたかさん原作の児童書の主人公の狐のことを言います。

1974年発表した「薔薇の鎖」「激しい恋」「傷だらけのローラ」は秀樹さんにしか歌えない曲であり、そして歌謡界に新しい風を吹き込んだ年でもありました。

デビュー2年目!「情熱の嵐」でたちまち秀樹さんの人気は急上昇!

1973年、秀樹さんはデビュー2年目を迎えました。「恋する季節」「恋の約束」「チャンスは一度」「青春に賭けよう」の4曲が思うようにヒットせず、秀樹さんは新御三家のライバル、そして友人でもある五郎さん、ひろみさんにかなり差をつけられ、辛い状態でした。

でもやっと!秀樹さんにも大きな転機が訪れます。それは1973年5月25日リリースの「情熱の嵐」が初めてオリコンのベストテン入りを果たすことが出来たのです!

この情報をスタッフは大喜びして、「情熱の嵐」がきっかけで秀樹さんの知名度がますます上がっていくこと間違いなしと確信したからです。

レコードの売上も今までとは違って、バンバン伸びていき、ここで本格的にアイドル「西城秀樹」の名前が一気に知れ渡っていきました。

出だしの歌詞が「君がのぞむなら~命をあげてもいい~♪」何とも女性のハートをつかんで、女性ファンが一気に増えて行きました。

歌謡ショーで秀樹さんが登場すると、「キャーヒデキー!!」とまたたくまに若い女性の声の歓声が広がりました。この時代の女性のキャーキャー声を「黄色い声」とよく聞きました。

秀樹さんの歌唱で、女性観客は少しでも彼のところへ近づこうとしたり、紙テープを投げたりして、ものすごい騒ぎとなりました。

でもこの「情熱の嵐」の大ヒットのお蔭で、今後の秀樹さんのリリースするシングルは、ベストテン入りが続くこととなります。

それに歌詞の間に「ヒデキ!」と叫ぶ声をはさんだりと、まさしく秀樹さんの歌唱は激しさを増していきました。そうなんです、これが秀樹さんの熱唱型と呼ばれる形となり、五郎さんやひろみさんにはない秀樹さんの魅力・特徴を引き出すきっかけとなったと言えます。

ですが秀樹さん、折角「情熱の嵐」がヒットしたというのに、歌を離れてしまうと普通の10代の少年に戻ってしまいます。いくら曲がヒットしてもやはりまだ18歳で、芸能会社の係の人のアパートに居候生活は続いていました。

18歳の男の子なら、普通は食べ盛り。家にいれば食事は思いのまま食べられます。ですが今は広島の実家ではなく、他人の家にお世話になっているので、食事をさせてもらってると言っても、お腹一杯食べるもんじゃないと遠慮していました。

だから折角食事をしても、何か物足りなさを感じていたのです。歌を離れた秀樹さんは、やはりアイドル路線を登り始めたと言っても、まだまだ子供っぽさが残ってたんですね。

「情熱の嵐」のイントロで、秀樹さんの「う~!う~!」ってうなる声がまたいいんですね。18歳の少年にしては本当に野生的な感じを受けます。

この曲のレコーディングの時、秀樹さんは何を考えていたのでしょうか?秀樹さんはコンサートのレパートリーで「情熱の嵐」を取り入れています。

やはり彼自身初のベストテン入りした曲なので、印象深いものがあったんでしょう。

それから1973年9月「ちぎれた愛」、同年11月「愛の十字架」をリリース、立て続けに1位の座を獲得し、年末のレコード大賞では「最優秀歌唱賞」を受賞しました。

この「最優秀歌唱賞」は歌手に取って、「歌が上手」と高評価されるレコード大賞グランプリの次に名誉な賞なんです。ですから歌手であれば誰もが欲しがる賞でもあります。

デビュー2年目で「最優秀歌唱賞」を受賞した秀樹さん。これは凄いことです。本当に歌の才能があったんだと改めて分かりました。

新御三家誕生!意外にも五郎さんやひろみさんより出遅れた秀樹さん

1972年3月にデビューした秀樹さんではありますが、同じ年に郷ひろみさんが「男の子女の子」でデビューしています。秀樹さんの方がひろみさんより5か月デビューは早かったのですが、新人当時はどういうわけか秀樹さんより、ひろみさんの方が上手でした。

前年1971年5月1日には野口五郎さんが「博多みれん」でデビューをし、秀樹さん、ひろみさんより1年先輩になります。

そこで同学年のこの五郎さん、秀樹さん、ひろみさんは「新御三家」と呼ばれるようになり、今後何かと比較されるようになりました。

五郎さんはイケメンで、歌唱力があり、ひろみさんは女の子の様に可愛い面がありました。しかし秀樹さんには何があるというのでしょう?1972年のレコード大賞新人賞候補に何故か秀樹さんは選ばれず、涙を流しました。

同期デビューしたひろみさんが、デビュー曲「男の子女の子」の大ヒットでその年の最優秀新人賞を獲得しました。そして五郎さんはNHK紅白初出場を果たしました。

秀樹さんは、レコード大賞の新人賞を狙ってはいたのですが、デビュー曲「恋する季節」の売上トータルから比較すると、郷ひろみさんのデビュー曲「男の子女の子」には勝てませんでした。

ひろみさんはジャニーズ事務所の出身ということで、売り出しをしていました。ですからジャニーズ系のタレントや歌手はとても人気があり、それが影響してかひろみさんに差をつけられてしまったことも考えられます。

ひろみさんの女の子のような甘いルックスと、「男の子女の子」のヒットが評価され、彼は新人賞を獲得出来ました。

NHK紅白歌合戦に関しては、野口五郎さんは10代で最年少の初出場ということで、有名になり、新御三家の中で秀樹さんだけが1972年の年末は何も手にすることが出来ない悔しさがありました。

やはりこの1970年代前半の男性歌手は、ルックスと歌唱力が評価の対象だったのでしょうか?

でも秀樹さんだって歌唱力はデビュー当初から十分にありました。新御三家で3人はこれからもライバルとして、時には仲の良い友人として付き合っていくわけですが、やはり秀樹さんは五郎さん、ひろみさんにはない何かを持っていたのです。

それが何なのか、1972年当時は分かりませんでした。

五郎さんは2人よりは1年先輩であっても、デビュー曲は演歌でしたがヒットせず、すぐにポップス系に路線を変更させたら成功することが出来ました。

ひろみさん、五郎さんより差を付けられた秀樹さんは、どんな形でアイドルへの階段を登っていくのでしょうか?

でも4曲目「青春に賭けよう」をリリースした時には、「青春歌謡」と評価され、誰でも口ずさむことが出来るようないい作品だったと秀樹さん自身語っています。

この曲は1970年代の若い男女対象の「何事にもくじけないで!ソング」にも聞こえます。当時の私は小学校低学年でまだまだ小さくて、西城秀樹の名前は全然知りませんでした。

でも年を追うごとに私も秀樹さんのことを徐々に知りつつある頃でもありました。

ワイルドな17歳がキャッチフレーズ!秀樹さんは自分で宣伝してた

西城秀樹さんのデビュー当時のキャッチフレーズは「ワイルドな17歳」でした。ワイルドとは日本語で「野性的」を意味しますが、まさしく秀樹さんにはピッタリなキャッチフレーズだったのではないでしょうか?

アイドルの場合、必ずといっていいほどキャッチフレーズがつきます。ではキャッチフレーズって一体何の意味があるのでしょうか?

キャッチフレーズとは、宣伝をかねて、観衆に幅広く知れ渡るようにすることを言います。

本名木本龍雄から芸名西城秀樹へ。1人の新人歌手として秀樹さんは自分の脚を使って、一刻も早く自分の名前を知ってもらおうと実物大の自分の姿が写った看板を持って、大きな駅前の街を歩き回っていました。

「新人の西城秀樹です!よろしくお願いします!」と秀樹さん、一生懸命呼び掛けていました。

ですが街中を歩く人達はデビューしたての秀樹さんには、全く関心がないようでした。「恋する季節」をリリースしたものの、なかなか売れない…キャンペーンまでして1人でも多くの人に自分の曲を聞いてもらいたい!秀樹さんは諦めることなくキャンペーンを続けていましたが。

やはり芸能界に入ることがどれだけ厳しいことか、デビューしたての秀樹さんはつくづく感じていたに違いありません。

そして2曲目「恋の約束」が1972年7月25日リリースされました。翌月にはキャッチフレーズと同名の初めてのコンサート「ワイルドな17歳」を開催しました。

2枚目のシングルはオリコン最高18位にライクインしました。でもやっぱりまだまだベスト10以内に入るには程遠く、歌手で売れることの難しさをまだまだ感じてた秀樹さんだったと思います。

その頃広島の実家では、秀樹さんの両親が自分の息子が名前を自分の力で売りだしていることを知り、あんなに芸能界入りを猛反対していた父でさえ、近所の人達に息子の宣伝をするようになりました。

秀樹さんの父はジャズが大好きな人です。あんなに音楽に情熱的になれたのは、自分の影響がいかに大きかったこと、そして血を引いた我が息子だからこそ出来たのだと改めて思ったのではないでしょうか?

でもまだ秀樹さんの父の気持ちの中には、歌手に100%賛成出来たわけではありませんでした。やはり親だからこそ、音楽は趣味としてやっていってほしかった、別の仕事に就いて欲しかったって願望があったのかもしれません。

それよりも何よりもまだ20歳にも満たない息子を、遠い東京へ行かせてしまったことに寂しさを感じていたのです。やはり親ですからね。いつまでも手元に置いておきたいのが親心です。

子供はいつか親の手をするりと抜けるかの様に、出て行ってしまいますからね。

さて、2曲をリリースした秀樹さん、また思うように曲がヒットせず、本当にこのままでいいのか?と疑問視してしまいます。

3曲目「チャンスは一度」を1972年11月25日リリースしました。そして同じ11月5日にファーストアルバム「ワイルドな17歳」もリリース。このファーストアルバムでは秀樹さんのメッセージが入っています。

「皆さんとお友達になりたいです!」の新人の秀樹さんの熱のこもったメッセージがとても印象的でした。

ファーストアルバムは、秀樹さんのこれからの歌手活動を本格化させました。秀樹さんの今後の活躍ぶりが期待できそうなファーストアルバムでした。

1972年3月25日「恋する季節」でデビュー!歌手西城秀樹の誕生

龍雄さんが歌手としてデビューすることが決まり、後は彼の芸名をどうするか?どんな芸名が彼に相応しいのか、芸映プロダクションのスタッフは考えました。

1960年代~1970年代にかけて、デビューした歌手は殆どが本名ではなく、芸名を名乗ることが多かったです。それが当たり前の時代でもありました。例えば戦前から戦後にかけて一世風靡した美空ひばりさんもれっきとした芸名です。彼女の本名は「加藤かずえさん」、それから今も演歌で活躍されている五木ひろしさんの本名は、「松山数夫さん」です。

そんな龍雄さんにも歌手として、テレビで歌うこととなれば、いかに視聴者に注目されるような親しみやすい芸名をつけなくてはなりません。

そこでスタッフは龍雄さんの芸名を「女学生の友」という名前の雑誌で一般公募することになりました。

女学生の友とは、1950年4月から1977年12月まで発行された、当時女子中学生、高校生向けの雑誌として読まれていました。

木本龍雄さんの芸名は一般の女性読者から沢山提案があり、色んな候補がありました。そして彼が広島県広島市に西城町があると話しており、名字は西城、下の名前は秀樹と決定しました。

広島で生まれ、そして東京に出てきた少年木本龍雄さんは、歌手西城秀樹として1972年3月25日、RCAレコードより「恋する季節」でデビューをしました!

このデビュー曲「恋する季節」をレコーディングした頃のエピソードがあります。それはまだ高校生でしたので、学生服を着たままでレコーディングをしたということです。本名木本龍雄さんはこれから芸名西城秀樹として、本格的に芸能界入りを果たしました。

初めての曲を録音した秀樹さんは、照れながらもやっと自分も歌手になれた嬉しさで一杯でした。でもこれからが本当の真剣勝負です。レコードは売れないとヒットには繋がりません。

秀樹さんが「恋する季節」で歌手デビューした時は、私は小学2年生でとても小さな子供でした。小学2年といえば、まだまだ歌手とか流行歌に興味を引くなんてことはなかったですね。

ですからテレビで新人の秀樹さんがどう出てきたのか、全く覚えていません。あの頃の私はどちらかといえば、ドリフターズの「8時だヨ!全員集合」などのお笑い番組が大好きで、歌番組は殆ど見てなかったと思います。

でも新人歌手にとって、デビューしてレコードを出すってことは、芸能界入り1年生でもあり、本当にこれから曲が売れるのかどうか、本当に興味深いものがありますよね、どんな時代でも。

さて、秀樹さんがデビューした1972年ですが、「恋する季節」の最終ランキングは42位でした。「オリコン」という名前のレコード売り上げランキング情報誌があるのですが、結局秀樹さんの「恋する季節」の上位ランクインは叶うことはありませんでした。

デビュー曲からいきなり知名度を上げるのって、かなり難しいことがよく分かりました。

1970年代前半の歌謡曲の1曲の長さは3分にも満たない短いものが多かったです。でも若々しい秀樹さんの声を聞きますと、デビュー曲からもう歌が上手だってことが分かります。

でも秀樹さん、自分でレコードキャンペーンなどをして、結構最初は苦労していました。1人でも多く自分の曲を聞いてもらうために、自分自身が顔だしをして、デビューシングルを販売していました。

しかしなかなかレコードは売れませんでした。

秀樹さんひとりぽっちの旅立ち!居候生活しながら歌のレッスンを開始

1970年9月、龍雄さんは軽装姿で、故郷の広島を離れてついに東京へやってきました。でも電車で出発する時は誰も見送りに来ず、まさしく彼はひとりぽっちで旅立ってきたのです。

広島生まれの広島育ちの龍雄さんにとって、大都会東京は驚きの連続でした。何といっても車の量が違うし、人の往来も激しいのです。これは広島でのどかに育ってきた龍雄さんは慣れるまでにさぞかし時間がかかったかと思います。

大手芸能会社のKさんの住むアパートに龍雄さんは、居候生活を始めることになりました。東京のアパートなのだから、部屋もきっと広いのでは?と期待したのですが、何とアパートの部屋は、四畳半と六畳の部屋が2つと後は台所だけでした。

「え?俺、今日からここに住むの?」広島の実家では自分専用の部屋があって、広かったので、想像とはあまりにも違いすぎたことに戸惑った龍雄さんでした。

Kさんには奥さんと赤ちゃんがいて、居候生活に入った龍雄さんは、家事を手伝ったり、時には赤ちゃんの世話もしていました。高校生の少年が赤ちゃんの世話をするのも、居候で置いてもらってるのだから、やらなくてはと龍雄さんの中にあったのでしょう。

そしてデビューに向けての音楽のレッスンも始まりました。高校も無事転校することが出来て、当時の龍雄さんは東京で希望に満ち溢れた生活を送っていました。

音楽レッスンでは学生服を着たまま、屋上で受けていました。振り付けや歌い方など、毎日Kさんの指導の下で行われました。

旅費や生活費にあてるようにと、ジャス喫茶の叔父が龍雄さんにお金を託してくれましたが、それもやがて底をつきました。

でも居候生活は順調で、Kさんの奥さんがとてもよくしてくれました。荷物が少ない状態で広島から東京で出てきたので、着替えも少なくて、何だか申し訳なく思う龍雄さんでした。

両親の猛反対を押し切って、東京に出てきた龍雄さんは、もう歌手になれるのならどんなレッスンもいとわないと一生懸命でした。只、プロへの道を目指すわけですから、Kさんのレッスンの厳しさは半端じゃありませんでした。

レッスンで失敗すると、激しく叱られてバツとして食事抜きなんてこともありました。現代だともう虐待扱いされますが、あの時代は厳しくしつけることが当たり前だったので、周囲は何も言いませんでした。

バツとして食事抜きだなんて、食べ盛りの少年からすると凄く辛いですね。でもプロの歌手になるには下積みをちゃんとしないとデビューさせてもらえません。

歌が上手なだけでは通用しません。ある程度踊れたり、体も軟らかくないといけません。

レッスンと学校が終わると、龍雄さんは外国の曲のレコード鑑賞をしていました。子供の頃から特にアメリカの曲が大好きだった彼にとって、レコード鑑賞も音楽レッスンの1つだったといえます。

居候生活を開始して、暫くして広島から龍雄さんの両親がKさんのアパートを訪ねて挨拶に来ました。しかし、息子の東京での生活状態を目の当たりにした父は、「何だ、東京にいながら狭いアパート暮らしの上、貧乏暮らしも同然じゃないか!」とまた怒りだし、「広島へ帰るんだ!」と龍雄さんを連れ戻そうとしました。

やはり龍雄さんの父はまだ息子の芸能界入りを反対していたのです。龍雄さんが「ここではいい生活をさせてもらってるから、帰るなんて言わないでほしい。」と父にお願しました。

また母も懸命に父を説得し、渋々広島へ帰っていきました。父に賛成してもらえないのは残念ですが。

こうしてレッスンを重ねていくうちに、「芸映プロダクション」への所属が決まり、デビューの日程も刻一刻と迫ってきました。

芸能界入りを両親から猛反対!それでも秀樹さんの決意は変わらない

芸能関係者から名刺を差し出されて、「え?僕が歌手に?」と驚いた龍雄さん。スカウトしたプロダクションの1人の男性は、彼の歌の上手さを評価していたのです。

中学生の男の子からして見れば、いきなり「歌手」と声掛けされても言葉が返せません。今までベガーズのメンバーの1人として活動してきただけに、歌手となると話は別です。

素人からプロへ転向する…これは15歳の少年が判断するにはかなり迷いもあったことででしょう。

でも今までアメリカ音楽ばかりに魅力を感じていた龍雄さんも、いつしか日本の歌謡曲にも興味を示すようになってきたことも有り、夏休みを利用してとりあえず両親には内緒で東京に出向いていきました。

東京で龍雄さんは、大手の芸能会社の担当者と多く顔合わせをして、色々話し合いをしました。「僕の歌声を芸能会社の人達が認めてくれているのだ。」と確信した龍雄さんは、歌手になる決意がどんどん固まっていきました。

でもまだ中学生でもあるので、ちゃんと高校には通いたいし、両親と相談してから東京へ改めて行くことで話は終わって、広島へ帰りました。

両親に歌手になりたいと話した龍雄さん。ジャズが大好きで、ジャズスクールに通わせるなどしてくれた父なので、もしかしたら賛成してくれるのではないか?と内心思っていました。

ですが両親は龍雄さんの芸能界入りには猛反対しました。特に父の三郎さんは、凄い剣幕で「歌をやるなら趣味でやっていけ!」と激怒しました。母も決していい顔はしていませんでした。

「プロでやっていけるわけないだろ!何考えてんだ、お前ってやつは!」三郎さんが反対するのも無理はありません。龍雄さんはまだ15歳なのです。それに木本家の末っ子でもあり、遠く離れた東京へ我が息子をやるなんて、とんでもないことと思っていたのかもしれません。

とてもこんな調子では両親を説得出来ないと思った龍雄さんは、暫くこの話は伏せ、翌年広島の地元の高校に進学しました。でもやっぱり歌手になりたい気持ちは強まっていくばかりで、ジャズ喫茶で働く叔父が密かに芸能会社の人と契約を交わしてくれました。

でも何故かそのことが父にばれてしまい、龍雄さんはまた父に激しく叱られました。「まだお前は東京へ行くことを考えていたのか?芸能界に入るなど絶対に許さんぞ!」

とうとう三郎さんは龍雄さんを外出禁止にしてしまい、彼の手足を縛って押し入れに閉じ込めてしまいました。「どうして、どうして親父は音楽好きなのに、俺の芸能界入りを許してくれないんだろう…?」と押し入れの中で悲しみのあまり泣いてしまいました。

閉じ込められた押し入れの中から、泣き声を聞いていたのは、龍雄さんの母でした。母もやはり息子の芸能界入りは反対だったのですが、どんなに猛反対をしてもあの子の気持ちは変わらないだろうと察するようになりました。

いくら息子であっても、いずれかは親の元を離れて行く…そう覚悟を決めた母は、押し入れの戸を開けました。父に反対され、手足を縛られた息子の哀れな姿に、母はもう息子の決意をのむことにしました。

そして縛られた手足のひもをほどいてくれました。押し入れからも母は出してくれました。

龍雄さんの母は、「お父さんのいないうちに東京へ行きなさい。」とそっと荷物を手渡してくれました。「え?お袋本当にいいの?」やはり母親は結局は味方になってくれるのです。

息子・龍雄さんに巡ってきた歌手へのチャンス…母としては親がどんなに反対したっていつかは出て行くことになるんだから、その瞬間がついに来たんだと感じてたのですね。

そして龍雄さんは広島の家を後にして、東京へ向かうことになりました。

歌手になる前の秀樹さん!ジャズ喫茶でバイト中にスカウトされた!

小学校5年生から兄、友人たちとベガーズを結成してから、いつしか数年が過ぎて、龍雄さんは中学生になっていました。ベガーズ活動は順調だったのですが、やはり各自の担当する楽器はどうしても必要であり、古くなったものは買い変える必要がありました。

メンバーの中で一番年下の龍雄さんも、新聞配達や牛乳配達のアルバイトをしながら、楽器を買うお金をせっせと貯めていました。

ですがバイトで稼いだお金は全て年上のメンバー用の楽器代金として消えてしまい、龍雄さん専用のドラムの買い変えのチャンスはなかなか回ってはきませんでした。

「自分は一番年下だから仕方無いか。」と諦めてた龍雄さん。でも音楽好きなのは仲間と同じなので、その自分のバイト代が仲間のために消えていくのはもう仕方のないことだと、半ば割り切っていました。

アルバイトでも利用可能なカードローン→→→元祖web完結!SMBCモビットの特徴と注意事項

でもやっぱり自分のバイトで稼いだお金は手元に残したい、好きな音楽をすることでもっと稼ぎになるバイトはないものか?と龍雄さんは思うようになりました。

そんな時、龍雄さんの叔父(父方、母方は分かりません。)がジャズ喫茶で働いていたので、中学3年の夏休み、叔父の声掛けでジャズ喫茶でアルバイトを始めました。

中学生といえば、思春期の真っただ中、そして男の子は成長期でもあり、龍雄さんは、この頃背が急に伸びました。ちなみに小学生時代は背が小さい方で、なかなか身長が伸びませんでした。

背の伸びた龍雄さんは、本格的にジャズ喫茶でドラムをたたくバイトを始めました。

龍雄さんは、どちらかと言えば、国内の音楽よりアメリカの音楽に魅力を感じていました。アメリカ人のようになりきって、ドラムをバーン!と思い切りたたいては、ミュージシャンになりたい夢をますます膨らませていました。

中学3年の夏休みとなれば、高校受験の準備もあります。ですが勉強の傍ら、龍雄さんはドラムをたたけばたたくほど夢を実現させたい願望が強くなっていきました。

広島に、とある有名なアメリカグループがバンドライブでやってきたときに、龍雄さんはベガーズの仲間たちと一緒に見に行きました。そのライブに感動した龍雄さんは、「どうしてもミュージシャンになりたい!」と仲間たちに話しています。

中学生なら、大人になれば何になりたいのか?本当に夢見る年頃ですよね。龍雄さんはもうハッキリと自分自身の中で音楽関係のことをしたい目的がありました。

その頃木本家は、引っ越しをしました。同じ広島市内ではありましたが、今まで住んでいた家がすっかり狭く感じてきたので、父の三郎さんが新築を決めたのです。

息子たちに自分の音楽好きを吹き込んだ父の三郎さんは、家を新築してから、素人のバンドグループを家に招いては、一緒に食事をしたり、泊まらせたりするなどして一気に木本家は音楽ファミリー一色になってしまいました。

そして龍雄さんの方は、またまた叔父からの勧めで、ドラムをたたくより歌う方がバイト料がよくなるということで、歌を始めました。これがいわば龍雄さんのこれからの人生に関わってくるきっかけとなるのです。

どちらかというとアメリカ音楽に魅力を感じていた彼ですが、日本人歌手では布施明さん、尾崎紀世彦さんに憧れていました。

ですから歌を始めた時には、彼は布施さん、尾崎さんの歌をメニューに取り入れていました。

叔父のジャズ喫茶には、東京からの芸能プロダクションの人がよく出入りしており、たまたま偶然龍雄さんの歌声を聞いたプロダクションの1人が、彼の隠れた才能を見抜いていました。

そして名刺を差し出し、龍雄さんに「歌手を目指す気はないか?」と声掛けをしました。

これこそスカウトの瞬間です!

広島で生まれた秀樹さん!子供時代はどんな少年だったの?

西城秀樹さんこと、本名木本龍雄さんは、昭和30年4月13日広島県広島市で誕生しました。子供時代は秀樹さんではないので、ここでは本名の木本龍雄さんで通すことにします。

龍雄さんの家族構成は父、母、姉、兄、そして龍雄さんの5人家族です。龍雄さんの父、木本三郎さんは、自動車の製品を扱うお店を経営していました。その他不動産屋もやっていました。

龍雄さんが生まれ育った昭和30年代は、戦後の復興に向けて高度成長期の前進の時代でもありました。ですから龍雄さんが物心ついた時から、木本家は結構お金持ちな家庭でもあったのです。

というのは、父の三郎さんが結構音楽好きで、特にジャズに興味がありました。家には昭和30年代にしては高級なものといわれたステレオが置いてありました。

その父の影響で、龍雄さんも幼少時代から音楽に親しんでいたわけです。父の勧めでバイオリンやピアノの稽古をさせられた龍雄さん。しかし飽きっぽいところがあってか、すぐに辞めてしまいました。

結局音楽好きな父に、強制的にバイオリンやピアノを習わされたようで、好きでもないことをやらされることは子供時代の龍雄さんにとっては、嫌々で仕方無かったといえます。

でも龍雄さんは、兄とはとても兄弟仲が良く、いつも一緒に遊んでいました。子供時代の龍雄さんは、食欲旺盛で赤ちゃん~2歳~幼稚園時代は結構ふっくらした体系でした。

やはり子供時代からスポーツは万能で、特に水泳は得意中の得意でした。中学時代の水泳大会で優勝したことがあります。

その反面、大変ないたずらっ子で、両親の手を焼かせてた龍雄さん。でも音楽の勉強はもう小学生の頃から始めていました。

小学校5年生の時、兄と友人たちと「ベガーズ」の名前でグループ結成し、文化祭で歌を披露していました。龍雄さんが担当していたのは、ドラムです。この時石原裕次郎さん主演の「嵐を呼ぶ男」の映画を見た龍雄さんは、裕次郎さんに憧れ、ドラムの勉強にますます磨きがかかっていきました。

ドラムをたたくことが大好きになった龍雄さんは、いつしかミュージシャンになりたい夢を抱くようになりました。

中学生になってから、グループサウンズが流行し、龍雄さんは中学の文化祭で兄と一緒にステージに上がって音楽を披露しました。別に龍雄さんはボーカルを務めてたわけではないですが、もう彼はすっかり勉強や3度の食事よりもドラムをたたくことが大好きで、毎日練習を続けていました。

まさしくドラムが生きがいと言ってもいいでしょう。兄や友人たちと「ベガーズ」のグループ名で活動していた龍雄さん。一体彼らは何処で音楽の練習をしていたのでしょうか?

それは何と!木本家の地下室だったのです。父が不動産を持っていたので、近所迷惑になることなく、そこで練習をしていたのです。

父の三郎さんは、自分の息子たちに音楽の良さを教えたい一心で、ドラムやエレキギターを買いそろえてくれました。昭和30~40年代の暮らしとしては、考えられないですね。

でも父のお蔭で龍雄さんは、どんどん音楽の世界に引き込まれていきました。グループサウンズ、ビートルズ、その他外国の楽曲にも関心を引くようになっていき、まさしく彼は音楽少年になっていたのです。

その活動が今後彼に取って大きなことが待ち受けているなんて、まだ知る由もありませんでした。