ワイルドな17歳がキャッチフレーズ!秀樹さんは自分で宣伝してた

西城秀樹さんのデビュー当時のキャッチフレーズは「ワイルドな17歳」でした。ワイルドとは日本語で「野性的」を意味しますが、まさしく秀樹さんにはピッタリなキャッチフレーズだったのではないでしょうか?

アイドルの場合、必ずといっていいほどキャッチフレーズがつきます。ではキャッチフレーズって一体何の意味があるのでしょうか?

キャッチフレーズとは、宣伝をかねて、観衆に幅広く知れ渡るようにすることを言います。

本名木本龍雄から芸名西城秀樹へ。1人の新人歌手として秀樹さんは自分の脚を使って、一刻も早く自分の名前を知ってもらおうと実物大の自分の姿が写った看板を持って、大きな駅前の街を歩き回っていました。

「新人の西城秀樹です!よろしくお願いします!」と秀樹さん、一生懸命呼び掛けていました。

ですが街中を歩く人達はデビューしたての秀樹さんには、全く関心がないようでした。「恋する季節」をリリースしたものの、なかなか売れない…キャンペーンまでして1人でも多くの人に自分の曲を聞いてもらいたい!秀樹さんは諦めることなくキャンペーンを続けていましたが。

やはり芸能界に入ることがどれだけ厳しいことか、デビューしたての秀樹さんはつくづく感じていたに違いありません。

そして2曲目「恋の約束」が1972年7月25日リリースされました。翌月にはキャッチフレーズと同名の初めてのコンサート「ワイルドな17歳」を開催しました。

2枚目のシングルはオリコン最高18位にライクインしました。でもやっぱりまだまだベスト10以内に入るには程遠く、歌手で売れることの難しさをまだまだ感じてた秀樹さんだったと思います。

その頃広島の実家では、秀樹さんの両親が自分の息子が名前を自分の力で売りだしていることを知り、あんなに芸能界入りを猛反対していた父でさえ、近所の人達に息子の宣伝をするようになりました。

秀樹さんの父はジャズが大好きな人です。あんなに音楽に情熱的になれたのは、自分の影響がいかに大きかったこと、そして血を引いた我が息子だからこそ出来たのだと改めて思ったのではないでしょうか?

でもまだ秀樹さんの父の気持ちの中には、歌手に100%賛成出来たわけではありませんでした。やはり親だからこそ、音楽は趣味としてやっていってほしかった、別の仕事に就いて欲しかったって願望があったのかもしれません。

それよりも何よりもまだ20歳にも満たない息子を、遠い東京へ行かせてしまったことに寂しさを感じていたのです。やはり親ですからね。いつまでも手元に置いておきたいのが親心です。

子供はいつか親の手をするりと抜けるかの様に、出て行ってしまいますからね。

さて、2曲をリリースした秀樹さん、また思うように曲がヒットせず、本当にこのままでいいのか?と疑問視してしまいます。

3曲目「チャンスは一度」を1972年11月25日リリースしました。そして同じ11月5日にファーストアルバム「ワイルドな17歳」もリリース。このファーストアルバムでは秀樹さんのメッセージが入っています。

「皆さんとお友達になりたいです!」の新人の秀樹さんの熱のこもったメッセージがとても印象的でした。

ファーストアルバムは、秀樹さんのこれからの歌手活動を本格化させました。秀樹さんの今後の活躍ぶりが期待できそうなファーストアルバムでした。