秀樹さんひとりぽっちの旅立ち!居候生活しながら歌のレッスンを開始

1970年9月、龍雄さんは軽装姿で、故郷の広島を離れてついに東京へやってきました。でも電車で出発する時は誰も見送りに来ず、まさしく彼はひとりぽっちで旅立ってきたのです。

広島生まれの広島育ちの龍雄さんにとって、大都会東京は驚きの連続でした。何といっても車の量が違うし、人の往来も激しいのです。これは広島でのどかに育ってきた龍雄さんは慣れるまでにさぞかし時間がかかったかと思います。

大手芸能会社のKさんの住むアパートに龍雄さんは、居候生活を始めることになりました。東京のアパートなのだから、部屋もきっと広いのでは?と期待したのですが、何とアパートの部屋は、四畳半と六畳の部屋が2つと後は台所だけでした。

「え?俺、今日からここに住むの?」広島の実家では自分専用の部屋があって、広かったので、想像とはあまりにも違いすぎたことに戸惑った龍雄さんでした。

Kさんには奥さんと赤ちゃんがいて、居候生活に入った龍雄さんは、家事を手伝ったり、時には赤ちゃんの世話もしていました。高校生の少年が赤ちゃんの世話をするのも、居候で置いてもらってるのだから、やらなくてはと龍雄さんの中にあったのでしょう。

そしてデビューに向けての音楽のレッスンも始まりました。高校も無事転校することが出来て、当時の龍雄さんは東京で希望に満ち溢れた生活を送っていました。

音楽レッスンでは学生服を着たまま、屋上で受けていました。振り付けや歌い方など、毎日Kさんの指導の下で行われました。

旅費や生活費にあてるようにと、ジャス喫茶の叔父が龍雄さんにお金を託してくれましたが、それもやがて底をつきました。

でも居候生活は順調で、Kさんの奥さんがとてもよくしてくれました。荷物が少ない状態で広島から東京で出てきたので、着替えも少なくて、何だか申し訳なく思う龍雄さんでした。

両親の猛反対を押し切って、東京に出てきた龍雄さんは、もう歌手になれるのならどんなレッスンもいとわないと一生懸命でした。只、プロへの道を目指すわけですから、Kさんのレッスンの厳しさは半端じゃありませんでした。

レッスンで失敗すると、激しく叱られてバツとして食事抜きなんてこともありました。現代だともう虐待扱いされますが、あの時代は厳しくしつけることが当たり前だったので、周囲は何も言いませんでした。

バツとして食事抜きだなんて、食べ盛りの少年からすると凄く辛いですね。でもプロの歌手になるには下積みをちゃんとしないとデビューさせてもらえません。

歌が上手なだけでは通用しません。ある程度踊れたり、体も軟らかくないといけません。

レッスンと学校が終わると、龍雄さんは外国の曲のレコード鑑賞をしていました。子供の頃から特にアメリカの曲が大好きだった彼にとって、レコード鑑賞も音楽レッスンの1つだったといえます。

居候生活を開始して、暫くして広島から龍雄さんの両親がKさんのアパートを訪ねて挨拶に来ました。しかし、息子の東京での生活状態を目の当たりにした父は、「何だ、東京にいながら狭いアパート暮らしの上、貧乏暮らしも同然じゃないか!」とまた怒りだし、「広島へ帰るんだ!」と龍雄さんを連れ戻そうとしました。

やはり龍雄さんの父はまだ息子の芸能界入りを反対していたのです。龍雄さんが「ここではいい生活をさせてもらってるから、帰るなんて言わないでほしい。」と父にお願しました。

また母も懸命に父を説得し、渋々広島へ帰っていきました。父に賛成してもらえないのは残念ですが。

こうしてレッスンを重ねていくうちに、「芸映プロダクション」への所属が決まり、デビューの日程も刻一刻と迫ってきました。